東京天竺とは、文化学院小説ゼミの有志で始めた同人誌。小説やエッセイ、漫画などを掲載。詳しくはカテゴリ『東京天竺1号』『東京天竺2号』ご覧下さい。


by tokyo_tenjiku

第13回突撃!隣のフェティシズム/『山椒』

『山椒』池谷薫子




 私が鰻に山椒をかける喜びを知ったのは一体いつのことであったか。それだけで美味い鰻にあえてかける山椒という香辛料。あってもなくても美味いのだ。だがあったほうが格段に美味い。思いも出せない昔、私はおそらく好奇心から山椒を手に取り、それ以来鰻といえば山椒だ。
 しかし、前述のとおり鰻はそれだけで十分に美味い。腹をすかせた時なんぞはうっかり山椒をかけるのを忘れてしまい後で後悔したりもする。また困ったことにテーブルに備え付けてある山椒が切れていたりする時もあり、給仕さんに声をかけようかと迷うのだが、忙しそうにしているとなかなかそれも気が引けしまう。何故ならそのままで十分に美味いということを私は知っているからだ。

 鰻と山椒。この微妙な関係こそが、私とフェティシズムなのである。そもそも、フェティシズムとは衣・食・住といった人間の最低限の営みとは無縁であるべきだ。それがなくても人生が成立しうる余剰文化こそがフェティシズムなのではないか。たた寝るのではない。ただ食べるのではない。ただ生きるのではない。その先にある拘りこそがフェティシズムなのだ。
 余剰文化故に腹をすかせてしまっているときは山椒をかけるのを忘れてしまう。手元に山椒がないときは諦めてしまう時もある。だがしかし、どうしても山椒をかけたあの格別な味を忘れることができずに追い求めてしまう。
 私の人生が美味いか不味いかなんぞはまだ知るすべもない。ただ、山椒がなくても私の人生は成立しうる。山椒をかけないほうが楽に物事が進む時もある。しかし、私は山椒の存在を知ってしまっている。立場上不相応な山椒もある。にもかかわらず屁理屈をこねくり回してその山椒をかける時すらある。時には山椒が煙幕のように私を飲み込み、咽返っている事もある。だが山椒をかけない鰻、もとい人生なんて・・・。意味がないのではない。意味ならばしっかりある。ただ、絶対的につまらないのだ!!!
 ここまで大見得を切ったからには「さぞかしお前さんは上等な山椒をお持ちの事だろう」とお思いかと思うが、生憎生来の小心者の私が持つ山椒にはたくさんの社会的、倫理的、精神的制約があり、どこぞの小説の題材になるような魅惑的、倒錯的な山椒は一切持ち合わせていない。美しくも悲しいソクラテス的法令順守精神が故、やはり山椒にもモラルがありルールがありプライドがあるのだ。だが、だからこそ大きな声で「フェティシズム」
なんて言葉を発せられるのだ。

 先日、ある鰻の名店でうな重を食した。お重からはみだした鰻を急いで一口口に運び、山椒の存在を思い出す。やはり美味い。横で鰻を頬張る子供はまだ山椒の存在を知らない。一体、いつどのようにしてであうのか。そんな小さな好奇心も私の大切な山椒なのだ。




いかがでしたでしょうか。一見固そうな文章ですが、読んで行くうちに思わずクスっと笑ったり”あるある”と相づち打ちながら読みました。(特にむせる所)フェティシズムは確かに、それがなくても生きていけると分かった上でのこだわりですね。そういう小さなこだわりがあるのとないのとでは、ほんのちょびっとの差ですが、生活していく上での充実感といいますか、楽しみが減る気がします。どうせ死ぬなら少しでも笑っていたいですな。

次回は・・・

「池谷薫子が紹介いたします次回のゲストは高橋アルパカさん。
その毛皮よりも熱い魂で冷え切ったあなたの心に火をつけます。
本人に消火の技術はありませんのでどうか皆様お気をつけください。
今年の猛暑に焼かれるくらいならば、いっそ高橋アルパカで!!」

ちゅーわけで、次回の更新日は9月3日!読んでくれよなっ。
それにしても高橋アルパカ、良い名前。
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by tokyo_tenjiku | 2010-08-20 10:24 | 突撃!隣のフェティシズム