東京天竺とは、文化学院小説ゼミの有志で始めた同人誌。小説やエッセイ、漫画などを掲載。詳しくはカテゴリ『東京天竺1号』『東京天竺2号』ご覧下さい。


by tokyo_tenjiku

第16回 突撃!隣のフェティシズム/『初恋』

『初恋』エリコムリ



それは先生の匂いだ。
身体の温度で緩やかに高められた、生暖かい香り。
ほのかに甘く、スパイシーな。
それまでに経験のない香りは、記憶の奥深くに息づくことになる。

まだ幼かったとしかいいようのない歳に、その匂いを知る。
なんでもなかった匂いを、そのうち始終探すようになり、
やっと気づくのだ。
自分が、その匂いを、そしてその人を求めていることに。

近づいてくるだけでわかる、シャネルの香り。
今となっては、正確な匂いを思い出せるかどうかは、自信がない。
だけれど、街で、その匂いの断片に出合うだけで、
私の胸は、ほんの少ししめつけられる。

先生との出会いの結末は、
常識と、想像力と、その他の決まり事が繰り出す程度のもの。

ただ、私の中には、残っている。
その時の、匂いが。
鼻腔を通り、胸をしめつけ、そしてどうしょうもなく、
細胞の一つ一つまでもを弛緩させる、甘く優しい薫り。

もし、私に光を感じる能力がなくなっても、
もし、音を感じる能力がなくなったとしても、
きっと、その匂いを感じることさえできるなら、
切なく、恋をしつづけることができるだろう。
道ですれ違う、曖昧な記憶の中の、あの匂いに。




【次回ゲスト紹介】10月15日更新予定
次回は、松下正樹さんです。彼の書く文章には、独自の美学があるような。特にお酒にまつわる文章はかっこいい。フェティッシュをどう料理してくれるか、お楽しみに!
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by tokyo_tenjiku | 2010-10-01 23:40 | 突撃!隣のフェティシズム